中央区の歴史

現在の中央区のエリアは、陸海で交通の要所でした。江戸は水運の都と言われ、隅田川などの河川と、お堀が物流を支えて商業を発展させてきました。日本橋は五街道の起点です。

中央区は江戸の昔から、近代以降も商業の中心地です。日本橋では江戸から続く商家が明治になっても発展を続けました。また銀座は日本橋がビジネス街となった下地でもある、銀貨鋳造所があって、繁華街となりました。

一方で、晴海や月島、勝どきなどは、河川を活かした水上交通と、それに連なる商工業の発展を目指すことで、活性化した街といえます。浚渫工事、埋立事業が進んで、東京にさらなる産業の発展、新たな商業、そして住まいをもたらしたと言えます。江戸の日本橋というのは、地形に合わせて格子状の町割りをしました。

特徴として、1ブロックをひとつの街区としないで、表通りを挟んだ半ブロック2区画をひとつの街区としました。そこには通りを挟んで向かい合う家どうしのほうが関係性が深くなるものです。メインストリートを強く意識した街づくりをしているということです。これが日本橋の商業が発展した背景であるといえます。この町割りを手掛けたのが、中井正清です。京の凄腕大工で、徳川家康がスカウトしたといわれています。通りを重んじる街づくりは、中井正清が京を参考にしたものです。

明治以降は、水運とそこに架かる橋が東京の発展を支えました。海と河川に恵まれた東京は、船によって人と物の行き来に適した都市でした。その点で、中型、大型の船を東京の運河や河川で行き来させて、陸とのアクセスを良くすることは、当時、海軍施設を設けることは軍事、産業発展のために欠かせない工事だったといえます。

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